Masuk「もう少し、一人で選びたいんだと思う」
真琴はそう言った。 責める声ではなかった。 怒っているわけでもない。 ただ、自分の中にあるものを確かめるような言い方だった。 悠斗は、すぐには返事ができなかった。 今までも真琴は、一人で買い物へ行くことがあった。 本屋にも、スーパーにも、駅前のドラッグストアにも。 それなのに今の言葉は、いつもの「一人」とは違って聞こえた。 一人で選びたい。 その中に、自分を入れてほしくないという意味が少しだけ含まれている気がした。 そんなことを思うのは、考えすぎだろうか。 悠斗には分からなかった。 「……そっか」 よう森下さんが帰ったあとの部屋は、少しだけ違って見えた。 カップを洗って、皿を拭いて、木のトレイを棚に戻す。 テーブルの上には、森下さんが持ってきてくれた焼き菓子の残りが小さな袋に入っている。 窓辺には水色の花瓶。 淡いオレンジの花。 その隣のクラゲ。 いつもの景色なのに、そこに誰かの声が残っている気がした。 藤崎さんのお部屋です。 ちゃんと好きなものを置いてる感じ。 自分のことをちゃんと好きにしようとしてる感じ。 森下さんの言葉を思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。 私は濡れた手をタオルで拭き、二脚目の椅子を見た。 さっきまで森下さんが座っていた椅子。 千尋が座った時とは、また違う余韻がある。 千尋は笑い声と勢いを置いていった。 森下さんは、部屋の中にある小さなものをひとつずつ見つけてくれた。 同じ椅子なのに、座る人によって残るものが違う。 それが、少し不思議で、少し嬉しかった。◇◇◇◇ 私は焼き菓子の袋を手に取った。 森下さんは「気を遣いすぎない量にしました」と言っていた。 その言葉の通り、小さな詰め合わせだった。 多すぎず、少なすぎず、今日食べきれなくても負担にならないくらい。 私は袋の口を折り直して、棚の上に置いた。 明日の朝、紅茶と一緒に食べよう。 そう思う。 誰かが持ってきてくれたものを、翌日の自分の楽しみにする。 以前の私は、来客のあとに残ったものを「片づけなければいけないもの」として見ていた気がする。 洗い物。 ゴミ。 余った食べ物。 乱れたクッション。 でも今は、それらが全部、誰かが来てくれた証拠のように見えた。 もちろん片づける。 そのままにはしない。 でも、急いで全部を消さなくてもいい。
駅まで送ると言うと、森下さんは少し遠慮した。「大丈夫ですよ。一人で帰れます」「うん。でも、私も少し歩きたいから」 そう言うと、森下さんは嬉しそうに頷いた。「じゃあ、お願いします」 二人で部屋を出る。 鍵をかける前に、私は一度だけ中を振り返った。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 窓辺の花瓶。 クラゲ。 使ったカップと皿は、まだシンクに置いてある。 前なら、誰かを送る前に洗ってしまいたくなったかもしれない。 水に浸けておいて、帰ってから片づければいい。 今はそう思える。 私はドアを閉め、鍵をかけた。
森下さんは、焼き菓子を小さな皿に並べながら言った。「実は、今日来るの少し迷ったんです」「え?」 私は紅茶のポットを置きながら聞き返した。「迷ってたの?」「はい。藤崎さんが誘ってくれたのは嬉しかったんですけど、私、職場の後輩ですし」「うん」「距離感、間違えたら嫌だなって」 森下さんは少し苦笑した。「藤崎さん、優しいから、嫌でも大丈夫って言いそうなので」 痛いところを突かれた。 私は思わず黙ってしまう。 森下さんは慌てたように手を振った。「あ、責めてるわけじゃないです!」「分かってる」「でも、前の藤崎さんなら、私が行きたいって言ったら、
改札前で待っていると、森下さんは大きな紙袋を持って現れた。「藤崎さん!」 私を見つけると、ぱっと表情が明るくなる。 紙袋を抱えたまま、小走りに近づいてきた。「すみません、遅くなりましたか?」「大丈夫。ちょうどいいくらい」「よかったです。緊張して、駅を一回逆方向に出そうになりました」「それは危なかったね」「危なかったです。藤崎さんのお部屋訪問、重大任務なので」 重大任務。 私は思わず笑った。「そんなに構えなくていいよ」「無理です。花瓶監査見習いとして」「本当にその肩書で来たんだ」「佐伯さんにはまだ非公認ですけど」「非公認監査員」
森下さんが来る土曜日、私は朝から少し落ち着かなかった。 待ち合わせは午後二時。 駅まで迎えに行くことになっている。 それまでに、掃除機をかけて、テーブルを拭いて、洗面所を整えて、お茶を用意する。 やることは多くない。 多くしない、と決めた。 それなのに、気づけば棚の上の埃を見つけてしまう。 床に置いた本の角度が気になる。 クッションの位置を直したくなる。 私は丸いテーブルの前で、両手を腰に当てた。「落ち着こう」 誰もいない部屋で言う。 森下さんは、部屋の審査員ではない。 花瓶監査見習いではあるけれど、それは冗談だ。 完璧な部屋を見せたいわけではない。 私はここで暮らしている。
◆ 悠斗は、スマホの画面を伏せた。 真琴から郵便物が届いたのは、昨日のことだった。 封筒には、丁寧な字で自分の名前と住所が書かれていた。 中には、こちらに紛れていた郵便物が一通。 それだけ。 メモはなかった。 余計な言葉もなかった。 必要なものを、必要な距離で送ってくれた。 それが少し寂しくて、でも同時にありがたかった。 悠斗は届いた郵便物を処理し、封筒を捨てられずにテーブルの端に置いていた。 真琴の字。 長く一緒にいたから、見慣れているはずだった。 けれど今は、それがもう自分の日常の中にないものとして目に入る。 悠斗は封筒を裏返した。 差出人の住所は、新しいものだった。 真琴の新しい住所。 そこに、真琴の生活がある。 自分の知らない部屋。 自分の知らない窓。 自分の知らない食卓。 悠斗はその住所を見つめて、胸の奥に鈍い痛みを感じた。 でも、画面を開いて何かを送ることはしなかった。 ありがとうは、昨日送った。 それで終わっている。◇ 夕飯は、冷凍していたご飯と味噌汁、焼いた鶏肉だった。 鶏肉は少し固くなった。 味噌汁は、前より少しまともになった気がする。 豆腐とわかめ。 味噌の量も、ようやく分かってきた。 悠斗は一人で食卓に座った。 向かいの席には何も置かないようにしている。 以前はそこに、真琴の席の気配を勝手に残していた。 半券を置きかけたこともある。 でも今は、できるだけ置かない。 そこを真琴の不在の飾りにしないために。 食べながら、スマホが震えた。 高瀬からだった。『味噌汁作った?』 写真つきのメッセージ。 高
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。







